221025

人の担降りブログを読んで、私はもうとっくに大野智から担降りしてるんだろうなあ、と感じた。
それでも担降りを認めないのは私の意地だ。
もし私が担降りを認めてしまったら、本当に大野智という人間が消えてしまうような気がして、認められないのだ。
思い出ごと全部幻にされて、私の前から消えて、大野智なんて最初からいなかったことにされてしまうような気がしてどうしても降りると言えない。
今思えば多分空気階段に出会った日にはもう担降りしてたんだろうなあ。
「しんどい」という感情を極力少なくして年を越せてしまったあの時、もう私の中で嵐は完結できていたのだと思う。
今は、ただの意地と悔しさの塊だ。

好きだった。すべてが。
大野智から生み出されるすべてが愛しくて大好きで堪らなかった。
今でも何かに大野智の姿を重ねる癖は直っていない。
それでも、今の私に大野智はほぼいない。そんなもんだ。
今は別で幸せ貰って気楽に暮らしてるから。
だから安心して休んでてね。
もしも戻ってきた時、のためだけに、担降りは取っておくよ。